おもちゃと5歳児と2歳児とイクメンとの生活

かわいい息子たちで実験育児

未就学児に鬼滅の刃を見せるか否か

タイトルは分かりやすくしたかっただけで、我が家の答えは「否」です。

年中のマロですが、保育園では鬼滅の刃が大ブーム。
マロも聞きかじって「水の呼吸」だの「壱ノ型」だの言っています。私も気になってあらすじを読んだり、部分的に視聴したりしましたが、個人的には4歳や5歳に見せるようなコンテンツだとは思えません。

だのに保育園では多くの同級生がはまり込んでいて、「鬼滅の刃ごっこ」なる遊びも頻繁に行われているようです。
マロも見たことがないながらも、聞きかじったキーワードで背伸びして参加しているようです。

鬼滅の刃』はきっと良い作品なのでしょうが、保育園で流行るってどうなの?というモヤモヤを友人のフランス人にぶつけた際に、「そんなのを見せてる親は教育をgive upしてるんじゃない?」というコメントが返ってきました。

 

これは非常に興味深い指摘です。

「教育」って何だと思いますか?(突然の壮大な問い)
壮大すぎるので問いをブレイクダウンします。

一昔前と現代とで、教育において重要な違いは何でしょう?

明らかに情報の量とアクセサビリティだと言えます。
少し前までは、情報は受け身では入ってきませんでした。世の教育ママは本屋に通って良い参考書を買ったり、評判を集めて習い事を選んだりしたものでした。
今は簡単です。大して熱心ではなくても、寝ころんだまま良い参考書や習い事の情報にたどり着けます。

能動的に情報を取得する必要がなくなった一方で、情報の取捨選択が教育においては必須になりました。

「何を与えるか」から「何を与えないか」パラダイムシフトしたと言えるでしょう。有害だったり知的ではない情報から遠ざけること、適切なタイミングで適切な情報に子どもをさらすことが、教育の一つの側面になりつつあると思います。
友人の言う「教育をgive upしている」はこの文脈で面白いコメントだと思います。

 

話を鬼滅の刃に戻すと、いくら良い作品でも、触れるべきタイミングというものがあり、せめて未就学児のうちは親がコントロールすべきだと思いますね。絶対に。そのコントロールこそ教育です。

私自身は、漫画・アニメ・ゲームにはむしろ好意的です。いつかマロと一緒に楽しめる日を心待ちにしてすらいます。

ただ繰り返しですが、いつ何を見せるかが非常に重要だと思っています

私は13歳でうっかりエヴァンゲリオンと出会ってしまったせいで、その後数年間をゴールのない同人活動に捧げる羽目になりました。
絵を描いてコミケに行くだけならまだしも、来年にはエヴァに乗って全てを背負う覚悟を試される・・・)という架空のプレッシャーにひしゃげそうになり、哲学書や宗教書にまで救いを求めて手を出しました。
思春期って恐ろしい。

 

自らの黒歴史まで披露して何が言いたいかというと、コンテンツの力は偉大です。たった一つの作品との出会いで人生が変わることがあります。傑作とされる作品ほどその威力を持っています。

子どもにコンテンツを与えるときに、その覚悟はあるか、今与える必要はあるのか、自問するようにしています。与えるのはいつでもできますからね。一度知ってしまったものは奪えません。

 

鬼滅の刃はマロが小学生になった頃、サラ太から隠れて一緒に見たいなと思っています。