おもちゃと5歳児と2歳児とイクメンとの生活

かわいい息子たちで実験育児

ようやく長男(5歳)のプリント学習が習慣化。工夫したことリスト。

最近の長男、成長しています。

筋金入りのつべこべボーイでしたが、つべこべがかなり減りました。つべ、くらいになりました。
緊急事態宣言中の登園自粛期間がピークにひどく、仕事上のあらゆるカウンターパートを差し置いて、長男が最も厄介なクライアントでした。もう思い出したくないあの日々・・・。

最近の特に嬉しい変化は、私が気が向いたときに誘っていたプリント学習を、自主的に毎日取り組むようになったことです。
寝る前の20分程度ですが、「あ、今日プリントやってない」「プリントやって絵本読んでから寝る」と言うようになり、彼の生活のルーチンの中に確かに組み込まれているようです。

私は先取り学習や早期教育にはさほど興味はないものの、机の上の紙に向かう習慣だけは就学前に身につけさせたい、と考えていました。お絵描き等に没頭するようなタイプなら別ですが、男の子の場合はそもそもじっと座るところが最初のハードルだったりもするので。
2歳ごろからゆるくアプローチしていたのですが、5歳目前でなんとか形になった気がしています。試行錯誤した中でそれなりに意味があったと感じていることはこんな感じです。

 

①「おべんきょう」というワードを使わない
②文房具は合うものが見つかるまで探す
③決まった時間に、フルーツを食べながら取り組む
④子どもが自主的に取り組んでいる演出をする
⑤褒めすぎない、叱らない

 

まずは、
①「おべんきょう」というワードを使わない

我が家では「プリント」という呼び方をしています。「おべんきょう」は禁句。
勉強というワードには「嫌なこと」「強制されること」といったネガティブなイメージを持ちやすい傾向にあります。なぜだかわかりませんが、少なくとも私が見ている限り、机に向かうのを嫌がる子は「おべんきょう」という言葉選びをして遠ざけています。
「おけいこ」でも「ドリル」でも何でもいいですが、本人がマイナスに捉えにくい呼称がおすすめです。よほどガッツがある子でなければ、一度嫌だと整理したものに取り組むモチベーションは湧きません。


次に、
②文房具は合うものが見つかるまで探す

繊細ボーイの長男。手が汚れるのを嫌がって集中力が途切れるので、クレヨンや鉛筆はNG。はっきりした書き味が好みで、間違えたころは綺麗に消したい派。

あれこれ買ってみましたが、今のところパイロットのフリクションカラーズに落ち着いています。
子どもの性格にもよるでしょうが、思った通りに書けるというのは、長男にとってはやる気をそがれにくいポイントのようです。

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そして、
③決まった時間に、フルーツを食べながら取り組む

長男と二人で机に向かう特別な時間の小道具として、フルーツを誘い水にしています。初期のころは「フルーツ食べながらプリントやらない?」が誘い文句でした。飲み物なりお菓子なり、子どものテンションがちょっとあがるものであれば何でもいいと思います。
重要なのは小道具をご褒美として使わないこと。「これやらないならお菓子ないよ」「これ終わったらあげる」はNGフレーズです。学習をご褒美のための手段や試練にしてはダメです。

 

最後の2点が最も重要で、

④子どもが自主的に取り組んでいる演出をする

⑤褒めすぎない、叱らない

私の目的は学習成果にはなく、あくまで学習の習慣化です。それにおいて最も重要なのは、学習を嫌いにさせないことです。好きにならなくても良し。分からなかったことが分かる、というサイクルを習慣化して、そこにやがて快感を見出してもらうのが狙いです。

私の仮説ですが、学習が嫌いになるきっかけにはパターンがあります。子どもが「強制されている」「やったらお母さんが喜ぶ」「やらないとお母さんに怒られる」と感じてしまったら、それをリカバリーするのはかなりの困難です。
そもそも私が子どもに勉強してほしいのは、子どものためです。私のためではありません。

私だって永遠に長男と遊んで暮らせるならそっちの方が良いです。そうではなくて彼のために学習習慣をつけようとしているのだから、『本人が自主的に、誰のためでもなく勉強している』という形式を決して崩さないことです。

私は長男の性格を鑑みて「今日はプリントやらなくでいいでしょ。寝ようよ。」とあえて駆け引きをすることもあります。「嫌だ、やる」と本人の口から言わせることで、良い自己暗示にかかってくれている気がします。

 

子ども達にはもちろん幸せになってほしいですが、私は私の人生も楽しみたいので、彼らの学習に最後まで伴走するつもりはないです。
お母さんのために頑張る、というモチベーションを持たれても正直困ります。私が先に死ぬでしょうから、彼らの人生の一部にしか責任はとれません。

さらに私自身の経験からしても、勉強はある一定のバーを超えると孤独なものです。
子どもの学習における自立は、孤独な戦いの第一歩とも言えるのではないでしょうか。