共働きの中学受験を考える
一向に紹介したいおもちゃの記事が書けておらず、自分の育児の悩みを吐露する場になってきてしまいました。
今日は最近考えている中学受験について。
長男を5年間観察し続けて、何となく方向性が見えてきた気がします。
彼は多分画家にはならないし、スポーツ選手にもならない。
最もあり得るだろうし、追求すべきルートなのだろうと今考えているのが、中学受験をして、中高一貫に進学し、いわゆる良い大学に入学するという落ち着きどころなのではないかと最近は思っています。
要は私自身と同じ偏差値追求型ルート。
同じルートではあるものの、私が中学受験したのはざっと四半世紀ほど昔。(衝撃・・・)加えて、私が西日本で受験したのに対し、マロは(多分)東京での受験。さらに娘ではなく息子。
前提条件が異なるので、早めにリサーチでもしておこうかと思い、周囲の受験生の親御さんにヒアリングしました。
・・・・・・想像以上の世界がそこにはありました。
私の周囲は高学歴に偏っています。いわゆる中学受験における御三家出身は珍しくありません。ところがですよ、その子どもが御三家に入れているわけではないのです。
さらに言うと、夫婦フルタイムで子どもが御三家に入れたor御三家に手が届きそう、というケースが今のところ見つからない。
私は気が付きました。中学受験には、お金と母ちゃんの時間が必要なことに。
中学受験において親がすべきことは、大きく以下の3つ(私調べ)。
①塾への送迎
②塾弁
③膨大なプリントの管理と家庭学習のフォロー
このうち①と②は外注可能で、そうしている家庭も見かけました。
問題は③です。
聞いている限りでは、令和なのにむしろ昭和よりも紙の絶対量が多くなっているような。それをそれぞれ、カリキュラムや習熟度ごとにファイルに整理し直す必要があるようです。昭和において、私の母ちゃんはそんなことまではしていなかった・・・。
(優秀な家庭教師に頼めばいいのでは?)と思い、実際にそうしている人の話も聞いたのですが、どうもうまくいっていないようでした。
おそらく、子どもの性格や得意不得意を熟知した上で、家庭学習のトータルサポートをすることが重要なのだと思います。もしかしたら時給5,000円の家庭教師でもやってくれるかもしれませんが、誰が適任かというとやっぱり母ちゃん(もしくは父ちゃん)になるのだと思います。
私にそんなキャパと時間が、5・6年後に果たして残っているんだろうか・・・。今の生活だとまず無理。今よりも楽になっている保証もない。
共働きかどうかは一旦置いておいて、中学受験での勝ちパターンを見ていくと、2通りあることに気が付きました。真面目なコツコツパターン、そして算数のセンスがずば抜けているパターン。
前者は女子によく見られ、さらに息子の性格もコツコツではない気がするので、親のサポートをミニマムに抑えたい我が家が目指すは後者かなと思い立ちました。あと5・6年で算数好きに持って行くのであれば、もしかしたらできるかもしれない。
『三塁に生まれた人』という表現があります。
それなりの家庭に生まれ、一塁二塁を自力で踏まずに、突然三塁から始まった立場の人の総称です。我が家の息子たちはまさにそれ。
今いる三塁からどうするかというと、自分の足でホームベースに走って点をとらなければなりません。ところが三塁に生まれた人は、自力で三塁に来たと思い込んでいるケースがままあり、そうなると走ったことがないので走り方が分からず、三塁のまま終わってしまいがちです。
三塁にいるハングリー精神の乏しい息子をホームベースに送り込むには、と日々頭を悩ませているところですが、算数はもしかしたらヒントになるかもしれません。
根っからの文系の私が、息子を理系にできるのか。また試行錯誤の日々が始まります。
一方で、三塁にいる息子に向けて、野球を辞める選択肢を育てることも親の役割かと思っています。
ホームベースに行けなかったからといって、全てが終わるわけではなく、野球をやめてサッカーをやればいい。中学受験に成功することが全てではなく、画家になったっていいしスポーツ選手になったっていい。
そう心から言ってあげられるためには、息子が大好きで熱中できるものを、たった一つでも見つけ、守り、投資して育てることが必要だろうなと思っています。
息子を算数好きにしつつ、何か一つ別の軸を見つけて育てる。
あと5、6年だととても間に合わないような気がしてきました。試してみたいことが山ほどあります。育児は悩ましくも、楽しい。
2児の母になって仕事ができなくなった私
最近仕事でくすぶっています。
自分のアウトプットの質の下がり方に。
独身自体は10の仕事を頼まれたら、11や12に色をつけて返すように心がけていました。マロが生まれたあとも、イクメンの多大な協力の下、なんとか安定的に11にして手渡すようにできていたと思います。
それがサラ太が産まれてからは、9でしかアウトプットできていない。自分でも9だと分かっていて出しています。
厳しい人には「何かもう一歩なんだよな」と指摘されます。
優しい人には「ありがとう!早いね!」と言われます。
もっと優しい人には「子ども2人いるのにすごいね」と言われます。
9のアウトプットを続けているせいで、自分の能力もストレッチしていないというか、成長を実感できていません。そんな仕事の仕方を変えたくて足掻いているのですが、そもそもなぜ、自分は母親になって仕事ができなくなってしまったのか。サボっているわけでもないのに。
そもそも実働が短い。
毎朝5時半に起きているのですが、子ども2人に自分を加えた3人分の支度をしていると、会社に着くのは8時半。独身のころは7時でした。
お迎えのために18時台に会社を出ます。もたもたするマロをどやしつけながら家に帰り、夕食を作って食べ、お風呂に入れて絵本を読んでドリルをし、寝かしつけます。ここで21時半。仕事の続きをして寝ます。0時くらい。
子どもがマロだけの頃は、イクメンやシッターさんに頼りながら20時まで仕事をしたり、そのあと飲みに行って仕事のヒントを得たりしていました。
それも子どもが2人になると、全くもって難しくなりました。
1人も2人もそんな変わらんやろ、と高をくくっていたのですが、体感としては大違いです。子どもが2人になって、夫婦の分業があいまいになった気がします。成長ステージが違う複数の自由電子の統制をとるために、一度分業を諦め、手が空いている人が各々気がついたことをやるスタイルになってしまいました。
マリオカートをやっていたはずなのに、ワニワニパニックが始まっているイメージ。とにかく忙しない。
子どもが2人になったことで、一気に団体感が出てきました。
マロだけのころは、庇護すべき存在が家にいるような感じでした。誤解を恐れずに言うと、ペットを飼っている方も同じような感覚かもしれません。
それが今は、思うように動いてくれないチームメイトが2人いる感じ。
実働が短くなったのみならず、いわゆる「名もない家事」で脳のキャパシティが食われているのも感じます。
シャンプーから牛乳からバナナから子ども服から、膨大な項目の在庫管理をしなければなりません。
「あれはまだあったっけ」「サイズまだ大丈夫かな」「ヨドバシの方が安いかも」と考えてネットを睨む時間が、日中そこそこあります。
よせばいいのに、おむつの単価まで電卓片手に計算しています。(増量パックやめてほしい。比べにくい。)
他にも土日のレジャー先を考えたり、習い事の情報収集をしたり。
どれも外注できない、見えにくい、でも家を回すために必要な家事です。
なかなか動いてくれないチームメイト2名、備品管理、職場環境の整備・・・。
これはもう中小企業に近しい。それも4名中2名しか働いてくれない中小企業。
私はフルタイムで雇用される傍ら、もう一社イケてない会社を経営しているのようなものではないか。
そう考えると、独身の時のようなアウトプットはそりゃ難しいか・・・、と思うに至ったのでした。
自分のことだけを考えていて良い人生は、とうに終わっているわけです。
もちろん、独身の時の激務の貯金で今があるわけですが、それを食い潰すだけのキャリアは受け入れがたい。もっと無理をして、自分ができることを増やして、たんまり稼ぎたい。
そのためには、今の仕事の仕方では駄目なのではないか、と思っています。
新卒以来ずっと、安定したクオリティの仕事を心がけていました。私の中ではそれがプロフェッショナルの定義でした。
もちろん11や12を出し続けられるならそれがベストですが、それが難しい今となっては、9を出し続けるよりは、7と13で緩急つけた方がまだいいかも?と考えてみたり。
基本忙しそうで7しか出てこないけど、たまにサプライズを生み出す人になるのもありかもしれない。
家庭と仕事の悩みは尽きることがなく、深まるばかり。
未就学児に鬼滅の刃を見せるか否か
タイトルは分かりやすくしたかっただけで、我が家の答えは「否」です。
年中のマロですが、保育園では鬼滅の刃が大ブーム。
マロも聞きかじって「水の呼吸」だの「壱ノ型」だの言っています。私も気になってあらすじを読んだり、部分的に視聴したりしましたが、個人的には4歳や5歳に見せるようなコンテンツだとは思えません。
だのに保育園では多くの同級生がはまり込んでいて、「鬼滅の刃ごっこ」なる遊びも頻繁に行われているようです。
マロも見たことがないながらも、聞きかじったキーワードで背伸びして参加しているようです。
『鬼滅の刃』はきっと良い作品なのでしょうが、保育園で流行るってどうなの?というモヤモヤを友人のフランス人にぶつけた際に、「そんなのを見せてる親は教育をgive upしてるんじゃない?」というコメントが返ってきました。
これは非常に興味深い指摘です。
「教育」って何だと思いますか?(突然の壮大な問い)
壮大すぎるので問いをブレイクダウンします。
一昔前と現代とで、教育において重要な違いは何でしょう?
明らかに情報の量とアクセサビリティだと言えます。
少し前までは、情報は受け身では入ってきませんでした。世の教育ママは本屋に通って良い参考書を買ったり、評判を集めて習い事を選んだりしたものでした。
今は簡単です。大して熱心ではなくても、寝ころんだまま良い参考書や習い事の情報にたどり着けます。
能動的に情報を取得する必要がなくなった一方で、情報の取捨選択が教育においては必須になりました。
「何を与えるか」から「何を与えないか」にパラダイムシフトしたと言えるでしょう。有害だったり知的ではない情報から遠ざけること、適切なタイミングで適切な情報に子どもをさらすことが、教育の一つの側面になりつつあると思います。
友人の言う「教育をgive upしている」はこの文脈で面白いコメントだと思います。
話を鬼滅の刃に戻すと、いくら良い作品でも、触れるべきタイミングというものがあり、せめて未就学児のうちは親がコントロールすべきだと思いますね。絶対に。そのコントロールこそ教育です。
私自身は、漫画・アニメ・ゲームにはむしろ好意的です。いつかマロと一緒に楽しめる日を心待ちにしてすらいます。
ただ繰り返しですが、いつ何を見せるかが非常に重要だと思っています。
私は13歳でうっかりエヴァンゲリオンと出会ってしまったせいで、その後数年間をゴールのない同人活動に捧げる羽目になりました。
絵を描いてコミケに行くだけならまだしも、(来年にはエヴァに乗って全てを背負う覚悟を試される・・・)という架空のプレッシャーにひしゃげそうになり、哲学書や宗教書にまで救いを求めて手を出しました。
思春期って恐ろしい。
自らの黒歴史まで披露して何が言いたいかというと、コンテンツの力は偉大です。たった一つの作品との出会いで人生が変わることがあります。傑作とされる作品ほどその威力を持っています。
子どもにコンテンツを与えるときに、その覚悟はあるか、今与える必要はあるのか、自問するようにしています。与えるのはいつでもできますからね。一度知ってしまったものは奪えません。
鬼滅の刃はマロが小学生になった頃、サラ太から隠れて一緒に見たいなと思っています。
海外子ども服の沼。自分は粗衣でも子どもには上質な服を。
子どもには何かとお金がかかるものですが、衣装代も馬鹿になりません。
2,000円もあれば、大人のTシャツは選び放題。そんなファストファッション全盛の今の時代にあって、子ども服のプライシングには個人的に大いに疑問があります。
布の絶対量は少ないのに、大人の服顔負けのお値段。しかも光の速度でサイズアウト。
いまいち子ども服のマーケットって納得感がないんですよね。
縫製が甘かったり、異様に人と被ったり。あとはデザインにも物申したい。子ども服のデザインって酷すぎやしませんか?
私のようなおシャレ素人が言うのもなんですが。
アンパンマンつけとけばええんやろ、というキャラものは論外として、他のデザインもなかなかのもの。ガールズは色が薄ピンクか薄パープルに偏重。柄はプリンセスかユニコーン。
ボーイズは恐竜か乗り物のプリント。あとは無意味な英文、もしくはadidas等のスポーツブランドのロゴ。
うちは男児2人ですが、男児でもしゃれた服を着せることを心がけています。不思議なことに、それだけで愚息がどこぞのご令息みたいに見えるんですよ・・・。
息子たちにめちゃくちゃ腹が立ったときも、(あっ、こんな育ちの良さそうな子たちの母だった私)と我に返らせてくれる。上質な子ども服にはそんな一面もあったりなかったり。
じゃあそんな上質な子ども服はどこで買えるのか、というと、私は海外ブランドのものを個人輸入しています。国内ブランドは押し並べてデザインがスタイリッシュすぎるんですよね。私は海外ブランドの、ちょっと大人は着づらいくらいの抜け感のある雰囲気が好きです。
数ある海外ブランドのなかでも、よく買うのはスペインの子ども服です。フランスや北欧のものも良いんですが、「無いなー」という奇抜なデザインもあるので。その点スペインのブランドは、ユニセックスかつ着る子どもを選ばない印象です。
一番よく買うのはTINYCOTTONS
ここの子ども服は生地が抜群です。なめらかで皺になりにくい。毛羽立ったりよれたりもしにくいので、友達にお下がりして戻って来てもまだ着れます。デザインはポップでチャーミング。色もビビッドです。
最近日本語サイトが出来たのですが、同時にちょっと高くなりました。でもこのクオリティは他では手に入らないので、これからも買います。
次はみんな大好きBoBo Choses。日本でもおしゃれなセレクトショップには大体置いてありますね。
値段のわりにたまに縫製が荒いのが玉にキズ。tinyより生地も薄い気がします。でも一目でBoBoとわかるアーティスティックなデザインはさすがです。
定価だと割高感があるので、アウトレットやセール時にまとめて買っています。
最後は知る人ぞ知るPicnik。日本ではビームスに少しだけ取り扱いがあるようです。
生地はBoBoと似ていて、tinyには劣ります。くすみ系カラーが多く、シックに着られます。デザインも好みが分かれにくい。
Picnikは日本への送料無料ラインが180ユーロから200ユーロの間という謎レンジで、買い物がしにくいのが難点です。カートから出し入れしながら調整しています。
定価はboboやtinyと同様、Tシャツで30-40ユーロくらい。ただ、常時過去のシーズンのセールがやっています。セールで買った場合、関税込みで5-6割くらいの出来上がりになるので、Tシャツ1枚2,000-3,500円といったところでしょうか。
関税については、boboとtinyは受け取りの際に配達員さんに払っていますが、picnikはコンビニ支払い用紙が別途郵送されてきました。たまたまかな。
Tシャツ1枚2,000円〜3,500円くらいとなると、ユニクロやZARAの倍ですが、その価値はあります。倍以上耐久性もありますし、倍以上カワイイ。すなわち我が子が倍以上カワイく見える。
個人輸入の際に悩ましいのがサイズ選び。表示年齢を参考にすると失敗しますので、日本のセレクトショップのオンラインショップで、各ブランドの着丈だけ参考にしています。(すみませんいつか買います)
私がダボっと着せるのが好きなのと、長男自体が5歳にしては大きめなので7Yや8Yを買っています。
海外の子ども服は本当に可愛い。何も考えずにポチポチしていると500ユーロを超えてきます。金に糸目をつけないのであれば、思い切り子ども服を買ってみたいですね。自分の服なんてどうでもいい。海外子ども服はそんな沼です。
もちろん汚れても気にならない価格帯の子ども服は、また別のところで買っています。その話はまた追って。
ようやく長男(5歳)のプリント学習が習慣化。工夫したことリスト。
最近の長男、成長しています。
筋金入りのつべこべボーイでしたが、つべこべがかなり減りました。つべ、くらいになりました。
緊急事態宣言中の登園自粛期間がピークにひどく、仕事上のあらゆるカウンターパートを差し置いて、長男が最も厄介なクライアントでした。もう思い出したくないあの日々・・・。
最近の特に嬉しい変化は、私が気が向いたときに誘っていたプリント学習を、自主的に毎日取り組むようになったことです。
寝る前の20分程度ですが、「あ、今日プリントやってない」「プリントやって絵本読んでから寝る」と言うようになり、彼の生活のルーチンの中に確かに組み込まれているようです。
私は先取り学習や早期教育にはさほど興味はないものの、机の上の紙に向かう習慣だけは就学前に身につけさせたい、と考えていました。お絵描き等に没頭するようなタイプなら別ですが、男の子の場合はそもそもじっと座るところが最初のハードルだったりもするので。
2歳ごろからゆるくアプローチしていたのですが、5歳目前でなんとか形になった気がしています。試行錯誤した中でそれなりに意味があったと感じていることはこんな感じです。
①「おべんきょう」というワードを使わない
②文房具は合うものが見つかるまで探す
③決まった時間に、フルーツを食べながら取り組む
④子どもが自主的に取り組んでいる演出をする
⑤褒めすぎない、叱らない
まずは、
①「おべんきょう」というワードを使わない
我が家では「プリント」という呼び方をしています。「おべんきょう」は禁句。
勉強というワードには「嫌なこと」「強制されること」といったネガティブなイメージを持ちやすい傾向にあります。なぜだかわかりませんが、少なくとも私が見ている限り、机に向かうのを嫌がる子は「おべんきょう」という言葉選びをして遠ざけています。
「おけいこ」でも「ドリル」でも何でもいいですが、本人がマイナスに捉えにくい呼称がおすすめです。よほどガッツがある子でなければ、一度嫌だと整理したものに取り組むモチベーションは湧きません。
次に、
②文房具は合うものが見つかるまで探す
繊細ボーイの長男。手が汚れるのを嫌がって集中力が途切れるので、クレヨンや鉛筆はNG。はっきりした書き味が好みで、間違えたころは綺麗に消したい派。
あれこれ買ってみましたが、今のところパイロットのフリクションカラーズに落ち着いています。
子どもの性格にもよるでしょうが、思った通りに書けるというのは、長男にとってはやる気をそがれにくいポイントのようです。
そして、
③決まった時間に、フルーツを食べながら取り組む
長男と二人で机に向かう特別な時間の小道具として、フルーツを誘い水にしています。初期のころは「フルーツ食べながらプリントやらない?」が誘い文句でした。飲み物なりお菓子なり、子どものテンションがちょっとあがるものであれば何でもいいと思います。
重要なのは小道具をご褒美として使わないこと。「これやらないならお菓子ないよ」「これ終わったらあげる」はNGフレーズです。学習をご褒美のための手段や試練にしてはダメです。
最後の2点が最も重要で、
④子どもが自主的に取り組んでいる演出をする
⑤褒めすぎない、叱らない
私の目的は学習成果にはなく、あくまで学習の習慣化です。それにおいて最も重要なのは、学習を嫌いにさせないことです。好きにならなくても良し。分からなかったことが分かる、というサイクルを習慣化して、そこにやがて快感を見出してもらうのが狙いです。
私の仮説ですが、学習が嫌いになるきっかけにはパターンがあります。子どもが「強制されている」「やったらお母さんが喜ぶ」「やらないとお母さんに怒られる」と感じてしまったら、それをリカバリーするのはかなりの困難です。
そもそも私が子どもに勉強してほしいのは、子どものためです。私のためではありません。
私だって永遠に長男と遊んで暮らせるならそっちの方が良いです。そうではなくて彼のために学習習慣をつけようとしているのだから、『本人が自主的に、誰のためでもなく勉強している』という形式を決して崩さないことです。
私は長男の性格を鑑みて「今日はプリントやらなくでいいでしょ。寝ようよ。」とあえて駆け引きをすることもあります。「嫌だ、やる」と本人の口から言わせることで、良い自己暗示にかかってくれている気がします。
子ども達にはもちろん幸せになってほしいですが、私は私の人生も楽しみたいので、彼らの学習に最後まで伴走するつもりはないです。
お母さんのために頑張る、というモチベーションを持たれても正直困ります。私が先に死ぬでしょうから、彼らの人生の一部にしか責任はとれません。
さらに私自身の経験からしても、勉強はある一定のバーを超えると孤独なものです。
子どもの学習における自立は、孤独な戦いの第一歩とも言えるのではないでしょうか。
家の中に国境を作った(日本育児のベビーサークル)
随分昔のことになりますが、マロが1歳を過ぎて家の中を自在に動き始めたころ、ベビーゲートを設置しました。
刃物や火の元もあるので、彼を守るためにキッチンの入口に取り付けました。
ところが私がキッチンに入ると、マロがベビーゲートの柵を掴んで、ウエーンウエーンと悲しそうに泣き続けるのですよ・・・。何だか檻に入れているようで気の毒になり、結局キッチンの中に入れたりしていました。
そんなことから、あまり便利だった印象が残らず、ベビーゲートは捨ててしまい、次男が生まれたあともしばらくはその類のものは検討せずでした。
・・・のですが、結局買いました。
日本育児のベビーサークル、『ミュージカルキッズランドDX』です。
それをサークル状に組まずに、こんな風に使っています。
このように、兄弟間に国境を作りました。
5歳になるマロと、1歳のサラ太。
4歳も離れていれば遊ばないし喧嘩もなかろう、とタカを括っていたのですが、とんでもない。
四六時中くっついてるんですよこれが。
1歳と遊んでそんなに君は楽しいのかい?と5歳には問いたいし、何度痛い目をみても兄にゴロニャンしに行く1歳のタフさにも感心します。
永遠に仲良く遊んでくれれば、そこには平和しかないのですが、そんなはずもなく・・・。
5歳は加減知らずに遊びを仕掛けるので、1歳が「ウアーン」となります。
あるいは集中して作ったものを1歳に壊された5歳が「あー!ちょっと、おかあさーん!(怒)」となります。
この2パターンの無限ループに、ほとほと嫌気がさし、無念な思いはあれど、物理的に兄弟を分断することにしました。
そしてささやかな平和が訪れました。
兄が大好きなサラ太は、国境付近をウロウロ徘徊しがちですが、自力では中には入れないので、このベビーサークルでそれぞれの空間を維持することができます。
血を分けた兄弟ですら、仕切りがなければ一日と持たないのだから、人類に国境は必要。ボーダーレスなんて夢物語。
ちなみに、このように、ベビーゲートさながらにキッチンに入場規制を設けることも可能です。
プラスチックですがそれなりに重みもあって自立します。
国境でなくとも、適宜次男に触ってほしくないものをガードするために使っています。
2人目以降育児の必須アイテムです。
【おもちゃレビュー】ちょっとブラックな長男のコルク積み木作品
もうすぐ5歳になる長男が1歳になったとき、義理の実家から自由学園生活工芸研究所のコルク積み木をプレゼントされました。
というか今見たら25,000円もするのかこれ・・・。
私の実家もですが、親世代って「皇室御用達」とか「愛子様も使われた」とかに弱くないですか?
「藤井聡太くんが遊んでいた」ならまだあやかりたい気持ちも理解できるのですが、皇室買いは何だか不思議な感じがします。良いものだと保証されている印象を受けるんでしょうかね。
このコルク積み木、皇室御用達だけあって確かに素晴らしいものなのです。大きくて軽い。それだけと言えばそれだけなのですが、小さな子どもでも、難なく持ち上げて大きな作品を作ることができます。
これは木の積み木(重言?)にはない特徴で、我が家においても木の積み木とは異なる使い方をされています。崩れてもうるさくないし当たっても痛くないのも良い。
積むだけではなくて、何かを支えるのに持ってきたり、飛び石のように置いてその上を歩いたり、何かと使い勝手の良いおもちゃです。
耐久性が高く、世代を越えて受け継ぐこともできます。
高価なので私は自腹で買おうとは思いませんが、孫の代まで使える前提であれば、悪くない買い物かもしれません。
私の布教活動も虚しく、マロは相変わらず積み木を始めとした構成遊びに興味がないままです。コルク積み木の出番も正直少ない。一方サラ太は比較的手に取ることが多いので、次男には今後の入信を期待しています。
先日、弟が出しっぱなしにしていたコルク積み木を、珍しくマロが熱心に積み上げていました。
私「何作ってるの?」
マ「エメラルドのお城!」
私は「そっかー楽しみだな。エメラルドのお城できたら見せてね」と声をかけて、家事をしていました。
「できたー!」という声が聞こえたので戻ると、こんなものがリビングに鎮座していました。
私「へー。これエメラルドのお城なの?」
マ「ううん、お墓」
墓?!
エメラルドのお城はいつの間に滅び、墓になったのか・・・。
私「この緑の棒は?」
マ「お線香だよ」
そうなんだ・・・。お母さんはてっきりエメラルドのお城のシンボルかと思ったよ・・・。緑色だしさ・・・。
マ「あ、良いこと考えた!」
ごそごそとケルナースティックで何かを作り始めたマロ。
マ「今度こそできたー!ジャーン!」
マ「お線香立てだよ。風が吹いても大丈夫だよ」
「かっこいいでしょ、写真撮ってー」と頼まれたので「いいねー、お母さんも死んだら入りたいなー」なんて言いながら撮りました。
次男の1歳の誕生日に買ったケルナースティック。本来はかわいい人形や動物を自作できるおもちゃです。ケルナースティックも、まさか自分が線香立てにされる日がくるとは思っていなかったのではないでしょうか。
マロは大人がギョッとするようなことを言うことがあり、そんなブラックなところは自分によく似てるなと思います。
犬を連れた人とすれ違ったあとに、満面の笑みで「あの犬いつかは死んじゃうだろうねー」と言ってフォローに困ったこともありました。
このちょっとブラックな部分にこれからも驚かされるんだろうな、と思うと少し楽しみだったり。
高学歴者たちの原点は何歳なのか
もう去年の話ですが、仲間内で飲んでいた時、興味深い話題になりました。
その面々を最終学歴で言うと、東大、東大、京大、早稲田理工の布陣だったのですが、そのうちのひとりが投げかけた問いが発端でした。
「自分が頭が良いかも、と気が付いたのはいつ?」
灘→東大の彼は、同級生にこの質問をするのがマイブーム(死語?)だと語りました。彼によればその回答にばらつきはあまり見られず、灘や東大の同級生は皆、小学校入学前には「自分の賢さ」に気が付いていた、と言うのです。
実際のところ、その場にいた全員が、幼稚園もしくは保育園のタイミングと答えました。それぞれちょっとしたエピソードを添えて。
エピソードの内容もどれも似通っていて、園の先生が出した問題を自分だけが解けた、親がダメ元で渡してきた課題を解いて驚かれた、といった類のものでした。つまり、何らかの形で評価者として大人が関わっていました。
私自身を振り返っても(自分は特別なのかも)と最初に感じたのは就学前でした。
家族で『世界ふしぎ発見』を見ていた時に、「生卵をテーブルの上に立てるにはどうすればいい?」と聞いてきた母親に、「ちょっと割る」と答えました。
なぜそう答えたのかは覚えていないのですが、ほとんど褒めることのなかった母親が驚いて父親に報告し、父親が「コロンブスだ」と嬉しそうに言った光景を鮮やかに覚えています。
この経験は、その後の私の自信を薄っすらと支え続けました。
わからない問題にぶつかっても、(自分は子どもながらにコロンブスくらいのポテンシャルはあるから出来る)と、半分弱くらいは本気で思っていました。その後コロンブスの虐殺者としての一面を知り、ショックを受けるわけですが。
さておき、高学歴な人たちの原点が就学前にある、という点について、できる人は幼いころからできるもの、という読み解き方はひとつあるでしょう。
それはそれでそう外れてはいない気がします。少なくとも私の周囲の超高学歴者で、小学校での勉強につまづいた経験を持つ人は皆無です。就学前に分岐しているのはほぼ確実だと思います。
一方で、その分岐には往々にして親や先生が関わっているのもまた事実。
未就学児の段階での大人から声掛けが、その後の子どもの自信や自己肯定感を醸成すると考えられます。
立ち返って4歳のマロを観察してみても、正直よくわかりません。
少なくとも自己肯定感は強そうな気がします。
オチのない話を長々とかつ堂々とする姿を見るにつけ、(自分の話を聞きたくない人はこの世にいないであろう)という意思を感じ、すごいなーと感心してしまいます。
私は彼に学歴を期待しているわけではありません。ただ、私の声掛けが彼の自信となり、それが外で戦う糧になってくれたらと思って接しています。
4歳ともなると叱る機会の方が圧倒的に多いので、意識しておかないと褒められません・・・。
とはいえ彼の自己肯定感の末路が、オチのない話をし続ける高学歴男子だったら悲劇でしかないんだよな、とも思ったり。
親心とは勝手なものです。
世界中に知らせたい。赤ちゃん育児にはペットシーツが最高だと。
突然ですが、他人から何かを勧められたとき、即座に「試してみよう」となりますか?
私はなりません。自分が営業職だからでしょうか。
人に物を勧めるのは、その人に買ってほしいから。なぜ買ってほしいかというと、勧める人にマージンもしくはキックバック等の利があるから。
そんなひねくれた私が今日お勧めしたいのは、ペットシーツです。
我が家にはペットはいません。いるのは荒ぶる4歳児と、動きたい盛りの1歳児、そしてそそっかしい3X歳の私。あと36歳のイクメンもいます。
ペットがいない我が家でどんな時にペットシーツを使っているかというと、まずはおむつ替えです。
我が家にはおむつ替えのための定位置がなく、カーペットにペットシーツを敷き、その上に次男を横たえておむつ交換しています。
おむつ替え中に次男がゴロゴロと転がって大小便がシーツについても、そのまま捨ててしまえばいいので、洗う作業が発生せず気が楽です。
無事にペットシーツを汚さずおむつ交換できた時は、おむつ替えボックスの中に戻し、何度か繰り返し使っています。
さらに大活躍するのが、飲み物をこぼした時の始末です。
長男はさすがにもう綺麗に食事できますが、次男は食べ物も飲み物もまき散らしながらの食事です。時には自分のもののみならず、親や兄のコップをもひっくり返します。
そんな時、こぼれたところにペットシーツをかぶせるだけで、コップ1・2杯程度の液体なら、余すところなく吸い取ってくれます。その後はささっと水拭きするだけなので、とんでもなく楽ちんです。
ちなみに1歳の次男だけではなく、3X歳の私もよく飲み物をこぼすので、我が家のペットシーツは大忙しです。
最近はありませんが、長男がトイレに失敗した時もペットシーツで吸い取っていました。消臭もしてくれますし、犬ではなく人の尿というだけなので、ある意味本来の使い方に最も近いと言えるでしょう。
子どもの粗相の後始末が楽、というのは非常に重要です。
やらかしてくれた時の「何てことしてくれたんだ」感がないので、怒りや苛立ちの感情が湧いてこないんです。子どもからすれば同じ粗相なんですが、ペットシーツの有無で親の気持ちはかなり変わります。
「何てことしてくれたんだ」まで行かずに「あららー♪」で済み、ペットシーツのおかげで私は穏やかな母親でいられます。そして短縮できた後始末の時間の分、穏やかな心のまま、子どもに絵本を1冊読んであげることもできるんです。
ペットシーツってすごい。
念のために書いておくと、私はペットシーツとは何の関係もない業界で勤務しており、この記事を書くにあたっても、ペットシーツメーカーから1円たりともいただいておりません。
それでも、ペットシーツを世界中の子育て世帯に普及したい。ペットシーツが生む便利と時間と心の余裕を知って欲しい。
ちなみに我が家はワイドサイズの無臭タイプを愛用しています。
一度私が間違えて香り付きを買ってしまったのですが、次男の大便臭とのマリアージュがヤバすぎるとの理由で、イクメンがおむつ替えをストライキしてしまいました。
皆様もご注意ください。
くもんもやめました
マロ3歳半の時に、くもんの無料体験に行ってみました。
無料体験後も、思い出したように「くもんやりたい」と言うので、このやる気は本物かもと思って入会しました。
・・・3ヶ月でやめました。
いやー早かった。2人目の産休中に始めて終わりました。やる気は本物だったと思うのですが、マロが思っていたのと違ったようです。それは私にとってもそうでした。
くもんをご存じの方ならわかるかと思いますが、くもんの基本は繰り返しです。9割方できていても1割できていなければ、その1割のために9割も繰り返します。
これがマロからすると「またこれ?こないだもやったじゃん!」となります。そうなると彼はつまらない、つまらないからやりたくない。
宿題をやって行かないと親も先生にチクリと言われるので、私も「いいからやりなさい!」と毎日言う羽目になりました。一人ではまだできないので横で見てあげるのですが、本人もつまらないので遊びだす、それを叱る、この繰り返しになって行きました。
(お金払って子どもを叱るネタが増えてるだけ・・・?)
と薄っすら思うようになりましたが、それでもしばらくは様子をみました。
というのも、やれば力はつくんですよね。教材はさすがしっかりしています。嫌々やったとしてもそれなりに成果はあがるんです。やりさえすれば。
マロが選択したのは国語と英語でしたが、たった3ヶ月で変則的な助詞も正確に読めるようになったし、英語の歌も気に入ったものは口ずさむようになりました。
ただ嫌がる。宿題も嫌がれば教室に行くのも嫌がる。
どうしたものかな、と思いはじめたころ、決定的な辞めるきっかけがありました。
教室で国語を指導してもらっているときのこと。マロが挿絵を指さして、何事かを嬉しそうに先生に話しかけました。
先生は「そうだねー、でも今はこれ読もうか」とさらりと流したのです。
それを見て(もう続けなくていいか)と思ったのでした。
私はマロが挿絵をみてどう思ったのか聞きたいし、それは書いてある文章をすらすら読めることよりもずっと重要なことだと思っています。
くもんの先生は悪くありません。カリキュラムの進度管理が仕事ですから、子どもの脱線にいちいち付き合っている場合ではないのです。
でも私は、子どもに時刻表通りにレールの上を走ってほしいわけではない。どんどん好きなだけ脱線して、(この子どこまで行くんだろう?)と私もワクワクしたい。
というわけで、私もある意味気が済んだ部分があり、くもんを辞めました。
今は家でプリント学習をやっています。私が横で見ているだけなので、脱線し放題です。
いずれ小学生になれば、嫌でもレールに乗せられる。きっと私もガミガミ言うようになる。それまでは自分も子どもも好きなようにやればいいさ、と思っています。
紙の上の指示とは離れて遊び出す息子の姿も、今は愛しい。